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まほらま逍遥 -にわか古代史ファンの古代散策- (第7回)  川口博2019.08

第7回 下鴨神社の神様はヤタガラスだった

京都の5月を彩る葵祭。いうまでもなく上賀茂神社、下鴨神社のお祭りです。

上賀茂神社の正式名は賀茂別雷(カモ ワケイカヅチ)神社と言い、ご祭神は賀茂別雷大神(カモ ワケイカヅチ オオカミ)という神様です。

一方、下鴨神社の正式名は賀茂御祖(カモ ミオヤ)神社と言い、ご祭神は賀茂建角身命(カモ タケツヌ ノ ミコト)と玉依日売命(タマヨリヒメ ノ ミコト)という神様です。

いずれも「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録されています。

上賀茂神社(賀茂別雷神社)楼門

下鴨神社(賀茂御祖神社)拝殿

1 下鴨神社の神様はヤタガラスだった

玉依日売は賀茂建角身の娘ですが、上賀茂神社の由緒によると、「玉依日売(タマヨリヒメ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命」と言うことになっています。つまり、玉依日売は別雷の母親、建角身はおじいちゃんということになり、そこから下鴨神社は「御祖(みおや)」の名が付けられています。

このように両神社は古代の「山城国」を治めた賀茂氏の氏神様を祀(まつ)る神社でした。上賀茂神社縁起に「秦氏の妻女の玉依日売が・・・」という記述があります。太秦(うずまさ)のあたりを本拠地とした秦(ハタ)氏と賀茂氏は同族だと言われていますが、両氏族には姻戚関係もあったようです。

 

下鴨神社のご祭神、賀茂建角身命(カモ タケツヌ ノ ミコト)が化身したのがヤタガラス(八咫烏、頭八咫烏)です。下鴨神社の由緒にもそう書かれています。

ヤタガラスはサッカー日本代表のエンブレムにも描かれた3本足のカラスです。咫(あた)は手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さ(約18cm)を言います。記紀には3本足とは書かれていません。

記紀によると、日本の初代天皇、神武天皇の東征の際に道案内をして神武の大和盆地入りを助けたカラスです。

下鴨神社(賀茂御祖神社)由緒記

サッカー日本代表 

エンブレム

 

2 神武東征

神武天皇の日本書記での東征神話を簡単に紹介します。(古事記とは多少異なっています。年号は日本書紀によりますが、考古学的に実証されたものではありません。)

 


神武天皇(神倭磐余彦天皇 カムヤマト イワレヒコ すめらみこと)の元々の名は彦火火出見尊(ヒコホホデミ ノ ミコト)、又は狭野尊(サノノミコト)と言いました。天孫降臨の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)→火火出見(ホホデミ=一般的な呼び方は「山幸彦」)→鵜草葺不合(ウガヤ フキアエズ)と続く系統の四代目の皇太子でした。(これらを「筑紫四代」と呼んでいます。)

 

イワレヒコが45歳の時、3人の兄たちや息子たちに言ました。「天祖の降跡より179万2470年経つが未だこの地を平定したとは言えない。東の方に青山が四方に巡る良い土地があると聞く。その地は大業を開き天下を治めるのに足る所だろう。もしかしたら国の中心だろうか。饒速日(ニギハヤヒ)らしき者も天岩船(あまのいわふね)で降りたようだ。そこへ行き都を作ろうと思う。」

 

紀元前667年10月、イワレヒコは兄弟、息子と共に水軍をひきいて筑紫の日向(定説では宮崎県)を出発し、速吸の門を経て菟狭(うさ・定説では大分県宇佐)に至りました。

菟狭の一柱騰宮(あしひとつあがりの宮)では菟狭津彦(ウサツヒコ)・菟狭津媛(ウサツヒメ)の兄妹にもてなされました。

その後、崗水門(おかのみなと・古遠賀湾=今の福岡県遠賀川)、安芸国(広島県)を経て吉備国(岡山県)で3年滞在し、舟を備え兵糧を蓄えました。

 

吉備国を出たイワレヒコ一行は紀元前663年3月、大阪湾、当時海だった古河内湾(現在の河内平野)を舟で進み、生駒山のふもとの白肩の津(現在の東大阪市付近)に着きました。そこから陸路で生駒山を超えようとした時、その地を支配する長髄彦(ナガスネヒコ)の軍と衝突しました。

イワレヒコの軍は苦戦し、この戦いでイワレヒコの長兄、五瀬(イツセ)命が流れ矢にあたって負傷しました。イワレヒコは「日の神の子孫の自分が日に向かって(東に向かって)戦うことは天の意思に逆らうことだ。」と悟り退却し、再び舟に乗り南からの迂回ルートを取りました。

 

5月8日、紀ノ川の河口付近でイワレヒコの長兄の五瀬(イツせ)命の傷が悪化し亡くなりました。一行は暴風雨のなか舟を進めましたが、さらに稲飯命と三毛入野命の二人の兄は自らの命を絶ちました。イワレヒコは熊野より山を越え大和盆地を目指しましたが道は険しく苦難を極めていました。その時現れたのがヤタガラスで、彼の案内で熊野の山を抜けることができました。

 

次々に現れる敵を卑怯な手を使いながらも退け、その年の12月4日、ついにラスボス長髄彦(ナガスネヒコ)との決戦となりました。連戦するも勝つことができず疲労困憊している時、金色のトビがイワレヒコの弓の先にとまり稲光のような光を発しました。ナガスネヒコ軍は混乱し戦意を喪失しました。

ナガスネヒコはイワレヒコのもとに使いを送り、「自分が主君としてつかえる櫛玉饒速日(クシダマ ニギハヤヒ)命は磐船に乗って天降りました。天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だ。」と言いました。

ナガスネヒコはニギハヤヒのもっている天神の子のしるしをイワレヒコに示しましたが、イワレヒコもまた自らが天神の子であるしるしを示し、どちらも本物とわかりまた。しかし、ナガスネヒコはそれでも戦いを止めなかったので、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺し、衆をひきいて帰順しました。

 

イワレヒコはその後も次々と従わない者たちを倒し、ついに紀元前660年1月1日(現代の暦では2月11日)、畝傍山の東南、橿原の宮で初代天皇に即位しました。

(始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、諡号は神倭磐余彦天皇。神武天皇と言う諡号は8世紀後半、淡海三船によって他の天皇の漢風諡号と合わせて付けられたと言われています.

 

神武東征のルート(定説)

 


 

日本書紀には神武天皇即位にあたりヤタガラスの功績に対し褒美が贈られ、その末裔が葛野主殿県主部であると書かれています。葛野県(かどのあがた)は現在の京都市の一部です。葛野県の支配権がなくなった後、賀茂氏は鴨県主を名乗ったようです。

なお、神武天皇の実在性には諸説あります。 またヤタガラスという秘密結社(正式には 八咫烏陰陽道)についてはまた別の機会に。

3 製鉄の民 賀茂氏

福岡県うきは市にも賀茂神社があります。ご祭神は神倭磐余彦天皇(神武天皇)、と京都の賀茂神社の三神(賀茂建角身命、玉依日売命、賀茂別雷命)です。

神社の由緒書には「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と、書かれています。

山北はこの神社が建っている地域の名ですが、神武天皇は宇佐からこの地に来てヤタガラスに道案内を依頼したようです。

賀茂神社(福岡県うきは市)

 古代の賀茂氏は製鉄の民だったと言われています。物部氏も占星術などのほか製鉄を行っていました。物部氏が祭器や武器などを作っていたのに対し、賀茂氏は農機具などの鉄器を作っていたと言われています。

賀茂氏や物部氏は鉄の産地を求め、各地を渡り歩いていたのでいろいろな道を熟知していたのでしょう。

北部九州のいくつかの装飾古墳には船首に鳥が停まる船が描かれています。この鳥はカラスで、道案内をする者の象徴だったのでしょうか。(下の写真はうきは市の賀茂神社から6kmほどのところにある珍敷塚古墳のものです)

最も原始的な製鉄方法は「スズ鉄」から作る方法で、古墳時代より前の製鉄方法です。スズは元素記号Snのスズではなく、温泉地帯の湿地帯に生えるカヤ類に付く褐鉄鋼の塊を言います。砂鉄や鉄鉱石から精製するたたら製鉄よりも低い温度でカヤを焼くことで鉄を精製できるそうです。

スズ鉄が鉄の材料となるくらいまで成長するのに何十年もかかります。「鈴」の本来の意味はこのことだそうです。

うきは市の賀茂神社は筑後川中流域で原鶴温泉の近くです。スズ鉄ができる条件を持っています。古代の製鉄の民はこのあたりで採れるスズ鉄を材料に製鉄をしていたのでしょうか。賀茂神社のすぐ隣の丘には「賀茂神社古墳群」があります。一族の墓地だったのかも知れません。また周辺には幾つもの国指定の装飾古墳がある地域です。

賀茂神社古墳群(福岡県うきは市)

 賀茂神社の横を流れる新川の上流の谷あいに「物部郷」と呼ばれた地域があります。つい最近まで外部の人間は立ち入れなかったそうです。そこにある「高御魂神社」を守っているのは物部本家の末裔だそうです。

 

4 ニギハヤヒ

神武東征神話で唐突と出てくる饒速日(ニギハヤヒ)ですが、物部氏や穂積氏、尾張氏、海部氏などの祖先とされています。

先代旧事(くじ)本紀という古書には「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテル クニテルヒコ アマノホアカリ クシダマ ニギハヤヒノミコト)という恐ろしく長い名前で、天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の兄とされています。

天照御魂神、天照皇御魂大神などの別名も持ち、本来の「天照大神」ではないかと考えています。元伊勢とも呼ばれる天橋立の「籠神社(このじんじゃ)」のご祭神であり、伊勢神宮外宮の「豊受大神」もニギハヤヒと同一神とする説もあります。

先代旧事本紀によると防衛(ふさぎのもり)32人、五部の供領(とものみやつこ)、警備のための物部5名の「造」と25名の「部」という大部隊と共に降臨しました。物部氏や賀茂氏の祖先もニギハヤヒに随伴して降臨しています。ニニギの降臨とは格の違いがあります。

ニニギより先に降臨したのに、神武の時代まで生きている筈はなく、ニギハヤヒの正体については大物主(大国主)と同一神とするなど諸説あり謎に包まれています。

 

その一つに、ニギハヤヒ=徐福(ジョフク)説があります。徐福についてウィキペディアから抜粋します。

 


『史記』によると、秦の始皇帝(BC259年~BC210年)に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある。


 

日本の各地に徐福伝説を残していますが、筑後川の河口、佐賀市の諸富町浮盃(ぶばい)は徐福の上陸の時のエピソードからついた地名との伝説があります。

 徐福がイスラエルの失われた10支族の一つであるヨセフ(ジョセフ)ではないかというトンデモ説が存在します。が、秦(ハタ)氏は秦(しん)から亡命してきたユダヤ王族の末裔という説もあり、あながちトンデモとも言えません。

 徐福がニギハヤヒなら、連れてきた百工の中に物部氏や賀茂氏の祖先がいたかも知れません。

物部氏の子孫で歴法家、九州大学工学部航空工学科助教授でもあった真鍋大覚氏(1923年~1991年)は、物部氏は製鉄や軍事ばかりでなく、星見(ものみ)をして星占いをしていた部族でルーツは中東にあると言っています。

七支刀でも有名な奈良県天理市にある物部氏の総氏神「石上(いそのかみ)神宮」の「石」、ニギハヤヒを祀る東大阪市の「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」は「石」は星の意味、天理市の三島神社の三島は「オリオン」の三つ星のことだそうです。